僕のオーケストラは存在する

「良い子はみんなご褒美がもらえる」考察ブログです。

日本版舞台「良い子はみんなご褒美がもらえる」はハシノフルートのメリバだった。

日本版舞台「良い子はみんなご褒美がもらえる」の大阪大千穐楽から早一か月強、開幕前の期待も不安も遥かに上回って大好きすぎたこの舞台を自分が懐古したい時に、自分で読み返して「そうそうこうだったよ~ここの演出好きだった!」とねちねちねちねち反芻するために、第一回よりも更に執拗で長すぎる考察まとめを残しておきたいと思います。

考察というかなんというか、もはやいっそ「良い子~の世界にのめり込みすぎたあまり退院できなくなってしまった或る重病患者の症例報告」といったほうが正しいかも知れません。ハシノフのオーケストラが聞こえる……。

あくまでも私個人の「考察」であって「解説」ではありません。この舞台は各人各様に解釈がありうるし、どれもが正解であり不正解なのです。こういう見方もあるんだーそれにしてもこいつ喋りすぎじゃね?程度に軽く読み流してください。

第一回まとめにも書いたとおり、私は(英露翻訳を経由したとはいえ)原作戯曲と英語版舞台を日本版舞台観劇前に履修しすぎてしまっていたため、今回の考察でも原作及び過去舞台と日本版舞台の演出の違いについてを主に取り上げていきます。そこが日本版舞台で私の好きなとこなんですよ!!! タケットさん演出最高すぎるでしょちょっと諸外国(ロシアとか)にこの演出で凱旋してくださらない!?(ロシアとか)(ロシアとか)(ロシアとか)(賭けてもいいけどロシア人絶対この舞台好きだよ?)

コピペで済むから手っ取り早いしト書きもついているので、原作戯曲の英露翻訳の露和翻訳から引用もしまくります。(「※※※」で挟まれているのが引用箇所です)非正規ルートのトンチキ翻訳なんか読みたくねえよって方は今すぐブラウザバックしてください。他に原作戯曲の日本語翻訳が文字では残されてないため、使えるものは使い倒します。

英露翻訳の露和翻訳はこちら→ https://privatter.net/p/4428249

第二回まとめと称しつつ、初見観劇時とはおおもとの解釈がさほど変わっていないので第一回まとめがベースです。第一回と同じこと繰り返すことも多々あるでしょうが、そのへんはオタクにありがちな「繰り返されるサビのフレーズ」ということで。

今回もまた、原作戯曲と英語版舞台の三人のアレクサンドル(サーシャ)は「アレクサンドル」「イワノフ」「サーシャ」、日本版舞台は俳優名と個人的な事情により「堤サンドル」「ハシノフ」「サーシャくん」と書き分けて区別します。


たいがいくどいですが私は観劇前に原作を履修しすぎてしまっていたため、科白自体はほぼほぼ原作どおりなのに、さりげなく差し挟まれる「原作との違い」、言い換えれば「日本版独自の演出」が非常に気になりました。
実は冒頭のイワノフとアレクサンドルの対話にも原作にない科白があります。

・オーケストラに対する不満をぶちまけながら、ハシノフは「ねえ、こっちに来て! いいから!(科白あやふや)」と堤サンドルの腕を取って舞台中央に引っ張っていく。

アレクサンドルの腕を引いて舞台中央に導くイワノフの描写は原作戯曲にも英語版舞台にもありません。ここで「ハープはどうだった? ボロロン」でしたっけ? あーこういう子供見たことあるわー、動物園とかに休日に駆り出されて正直めんどくさいお父さんを連れ回して「パパー見て見てー」って。

早くもこの時点でハシノフは、堤サンドルに懐きかけているのです。開演から十分経ってないくらいだけど早いな!?

しかし堤サンドルは楽器が演奏できません。ハシノフに何度問い詰められても「俺は楽器が弾けないんだ!」と譲らなかった。実際にバイオリンが演奏できる医者もいたというのに、何故ハシノフは楽器の演奏ができない堤サンドルに執着したのか?

堤サンドルと医者の違いは、「患者か医者か」「楽器が演奏できるか否か」の傍目にも明確な差はハシノフにとってはおそらく二の次で、「ハシノフのオーケストラの存在を否定するかしないか」、この一点に尽きるのだと思います。

マシュマロで指摘されてはっと気づいたのですが、堤サンドルは冒頭で「可愛いサーシャ。時間潰しにお前に宛てた詩を書くよ」と実の息子のサーシャくん宛の手紙を書き綴り、「(頭のおかしい同房の男に)オーケストラなんかいませんって言うべきか? 多分言うよ」と述べつつも、面と向かってはハシノフに「オーケストラはいない」と告げていません。


※※※

アレクサンドル (あやふやに)そもそも私は音楽に通じてませんので……。

アレクサンドル ですから私は音楽には疎くて……。

アレクサンドル はあ、大変なんですね。

※※※


逃げ場のない監房で、若くて元気で確実に自分よりも腕力がある上に頭のおかしい男が勝手に盛り上がっちゃってるところに、「あんた頭おかしいですよオーケストラとか何言ってんの?」と突っ込む度胸がなかっただけだろうとは思うものの、アレクサンドルはまるで「自分が音楽に疎いせいであなたのオーケストラの演奏が理解できないんですごめんなさい」と言わんばかりの対応をしてしまっているのです。これはいけない。


※※※

医者 お聞きなさい。オーケストラは実際には存在していません。オーケストラの存在を我々が否定してからでないと治療などできないんですよ。

イワノフ ということは、肯定すれば存在するんですね。

※※※


イワノフにとって彼のオーケストラは、否定されなければ存在するのです。否定しないことでアレクサンドルは、そのつもりがなかろうとイワノフのオーケストラの存在を肯定してしまった。

原作でも舞台でも描かれていないイワノフの入院歴を含む過去は想像するしかありませんが、おそらく彼はずっと、「お前は気が狂っている」「オーケストラなど存在しない」と言われ続けていた。誰も同室にできず独房でたったひとり、自分にしか聞こえないオーケストラの演奏を延々と聞かされ続けてヒステリックに喚き散らしていたのでしょう。

そのイワノフの砦であり唯一のテリトリーだったであろう独房に、アレクサンドルの寝台が持ち込まれた。
(日本版舞台では「寝台」は省かれており堤サンドルは階段状の床に直接横たわりますが、原作戯曲には「二台の寝台が並ぶ監房」と明確に指示されています)

僕のオーケストラはいないってこの人は言わない。僕のオーケストラの演奏がこの人には聞こえるのかな? 聞こえててほしいな。聞こえる? ねぇ聞こえる?

ハシノフの「聞こえる?」攻撃も日本版独自の演出です。原作にはありません。
(配信で聞けるサントラでも、医者に「オーケストラはいない」と言わされたイワノフが監房に戻ったあと、眠っていたアレクサンドルがうなされて跳ね起きる場面の直前で、イワノフは何か言っているんですが、当然英語なので私には聞き取れず……ただ、「I said, are you?」と淡々と問い詰める感じで日本版のような揺さぶり起こす勢いの「聞こえる?」攻撃ではなさそうです)


ところで私は導入のオーケストラ演奏シーンの原作ト書きが好きです。


※※※

   監房ではアレクサンドルとイワノフがそれぞれの寝台に座っている。オーケストラがチューニングを始める。出だしは本格的であるが、数分もすると同じフレーズの繰り返し、すなわち沈黙が訪れる。だがオーケストラはあたかもチューニングを続けているかのように振舞う。
   イワノフは立ち上がり、トライアングルとビーターを取り上げる。オーケストラは静止する。
   沈黙。
   イワノフはトライアングルを一度打ち鳴らす。オーケストラは音もなく演奏の真似を再開する。観客には聞こえない音楽にイワノフは没入し、彼にしか見えない楽譜の指示に従って時折トライアングルを打ち鳴らす。観客に聞こえるのはそのトライアングルの音だけである。アレクサンドルはイワノフを眺めている。観客同様、彼にもトライアングルの音しか聞こえていない。
   その光景はおよそ一分間続く。その後、非常に静かに、イワノフにだけ聞こえていた音楽が始まる。観客にもオーケストラの音楽が聞こえるようになる。イワノフが奏でるトライアングルの音色は今やオーケストラの一部である。
   とてもゆっくりと、だが着実に音楽は大きくなっていく。そして突然、とある和音と共にオーケストラ上の照明に灯が点り、指揮台に立つ指揮者を有する壮麗なオーケストラの一望が露見する。オーケストラは全身全霊で演奏する。トライアングルのパートはシンフォニーに欠かせないものである。
   我々は今やイワノフの意識と同調している。だがアレクサンドルは相変わらず外から出来事を観察しているだけである。聞こえるのはトライアングルの音色だけ、見えているのはイワノフだけである。

※※※


日本版舞台でハシノフは、「こっちに来て!」と堤サンドルを舞台中央、すなわち指揮者の位置に連れ出して自分のオーケストラの全貌を見てもらおうとし、「聞こえる? ねぇ聞こえる?」とすがりつくような懸命さで訴えかけます。「ハシノフにしか見えず、ハシノフにしか聞こえないオーケストラ」を、堤サンドルと共有したかったのです。自分のオーケストラの存在を堤サンドルにも認識してほしかった。堤サンドルには「ハシノフのトライアングルの音色しか聞こえず、ハシノフしか見えていなかった」のに。


この後のアレクサンドルの行動もいけなかった。彼はイワノフが訴えかける「声」に応えてしまうのです。


※※※

イワノフ 心配しないでください。どうするべきかはちゃんと心得ています。トランペット奏者が寄ってきたら歯をへし折りますし、バイオリン奏者は鼻面を蹴り上げてやりますよ。このブーツでね。チェロ奏者はなんとでもなります。あなたはどんな楽器ができますか?<註:英語原作全文は「Don't worry, I know how to handle myself. Any trumpeter comes at me, I'll kick his teeth in. Violins get it under the chin to boot, this boot, and God help anyone who plays a cello. Do you play a musical instrument?」>

アレクサンドル 何もできません。

イワノフ 気にしないでいいですよ。あなたの話を聞かせてください。子供時代のこと、家族のこと、初めての音楽の先生のこと。そもそもの始まりは何だったんですか?

※※※


ここからアレクサンドルの長々しい独白が始まるのですが、この場面のハシノフの演技が私はとてもとても好きでした。
自分では感情が抑えきれず激高するまま喚き散らしたり何なり奇行を晒しては立ち会わせた者を怯えさせてしまい、あとから我に返って自分の行動を後悔せずにはいられない。ひょんな拍子で高ぶりやすい感情が制御ができないだけで根は良い子なんですよ、ハシノフくんは。だから堤サンドルの悪夢の場面で「聞こえる!? ねぇ聞こえる!?」と必死に揺さぶり起こしながら、悲鳴を上げて飛び起きられると(「あいつら俺にはどうもできないんだよねー」とオーケストラのせいにしつつも)ちゃんと謝罪する。
ハシノフは「あんたの話を聞かせてくれよ」と堤サンドルに話しかけますが、ここで間が流れます。「ああー駄目だー返事してもらえないーまたやっちゃったー」とハシノフがしょんもり俯いちゃった頃、おもむろに堤サンドルは独白を始めます。人名がABCのアルファベットで語られる重々しい長話です。音楽の話じゃない。それでもハシノフははっと顔を上げ真剣な面持ちで堤サンドルの顔を凝視しながら真面目に耳を澄ませるのです。

アレクサンドルは、「頭のおかしい男だ」と暗にでもなく露骨に見下していたイワノフの「あなたの話を聞かせてください」という要望に真っ向から応えてしまった。僕だけのオーケストラの演奏が聞こえてしまうから僕は頭がおかしいと言われる、僕は頭がおかしいから僕が何を言っても誰も僕の話を聞いてくれない、なんで僕の話を聞いてくれないの、とヒステリックに喚き散らすしかなかったイワノフにとってはもはや革命です。執着、しますね……。

アレクサンドル自身もおかしくなってきてるんですよ。立場が立場なんで盗聴されていてもおかしくない状況なのに、たまたま同房にさせられただけの頭のおかしい男に長々と自分語りをしてしまう。あるいはただ単に、「こいつ頭おかしいし俺だってこいつの意味わかんない長話に付き合わされてんだからこれまでの鬱憤ぶちまけちゃっても大丈夫だろ」とはけ口にしたかっただけかも知れない。でもイワノフにとっては、「僕の話をお医者さんみたいに頭ごなしに否定もしないしお話ししてってお願いしたらちゃんとお返事してくれた人」にみるみる格上げされてっちゃったんですよアレクサンドルは……本当にいけない!!!


日本版舞台における個人的なサビのひとつなので、第一回まとめから「アレクサンドルの悪夢について」の箇所をそのままコピペさせてください。


ーーーーー

・アレクサンドルの悪夢について

作中でアレクサンドルは二度悪夢に魘されます。
一度目はサーシャと女教師のトライアングルにまつわる会話であり、
二度目は医師にオーケストラの存在を否定されたイワノフが監房に戻ってきた時です。
サーシャと女教師の会話は、自分が政治犯として拘束されたせいで同姓同名である息子のサーシャも迫害を受けてはいないかという不安と自責の念、また面会時にサーシャから聞いた「幾何学の授業が始まった」という現実の情報が絡まり合って見せた夢でしょう。
(息子の名前を叫んでアレクサンドルは目を覚ますが、原作戯曲のト書きには「アレクサンドルが叫ぶのは夢の中であり、舞台上では反対側である。」と明記されています。)
ここで恐ろしいのは、アレクサンドルの夢の中で女教師がサーシャに言う「夕飯の時間よ」を現実のイワノフがそのまま口にすることです。
まるでイワノフもアレクサンドルと同じ夢を見ていた、もしくはいっそ、同名でありトライアングル奏者という共通点もあるサーシャとしてその夢に登場していたかのように。
(舞台の正確な科白は覚えてないのですが、「あなたのために楽譜を書き直して全部黄色(トライアングルのパート)で塗り替えてあげる」のくだりです。続く科白は「It will look like a field of buttercups, and sound like dinnertime.」で、直訳は「それはまるでキンポウゲ畑のように見えて夕食の時のように鳴り響くでしょう」。「キンポウゲ(buttercups)」を食器に例えて食器の鳴る音とトライアングルの音色をかけている。
イワノフは目を覚ましたアレクサンドルに「Dinnertime.(夕飯だよ)」と告げる。)


二度目の悪夢はさらに恐ろしい。


※※※

そのあいだ中(イワノフと医師の問答)ずっと、監房のアレクサンドルは自分の寝台で眠っている。イワノフが戻ってくる。彼はトライアングルのビーターを取り上げる。眠っているアレクサンドルのそばに立って彼を眺める。音楽が不安を掻き立て始め、やがて恐ろしいものに変わる。それはアレクサンドルの悪夢である。音楽の主旋律は大詰めを迎えそうになるが、その時アレクサンドルは目を覚まして飛び上がる。音楽はやむ。
   沈黙。

イワノフ すみません。手に負えない連中なんです。<註:英語原作は「Sorry. I can't control them.」>

※※※


この時点で既に、夢の中ではあるがアレクサンドルにはイワノフのオーケストラが聞こえているのです。しかもそれを知っているかのようにイワノフは、アレクサンドルの悪夢は自分のオーケストラのせいであるものとして謝罪しています。アレクサンドルの正気はイワノフの狂気に徐々に浸食されていっている。

ーーーーー


強制的にハシノフと同房にされてからというもの、「あいつは狂人だが俺は狂っていない!」と医者に主張しつつも、堤サンドルは言動と言いまなざしと言い、徐々に常軌を逸していきます(堤さんの演技力たるや!)。ハンストで衰弱し足元もおぼつかず、壁に縋ってどうにか立ちながら「パパが狂ってるなんて奴らに言わせるな!」と叫ぶとこなんてとても正気の人間には見えませんでした。

「自分は狂っていない!」と声高に主張するが心身ともに疲弊しきってやつれ果て乱れ髪で眼光ばかりが鋭く、唐突に自作の詩の朗読を始めて笑い転げたり何なりと傍目には異常としか見えない行動に走る堤サンドル(医者もびっくりだよ)、「ここはキチガイ病院だ」「(「ソビエトの医者は正常な人間を精神病院に入れると思うか?」と大佐に問われて)思わないよ」とあっさり言い切り、その中にいる自分は狂人なのだと認めながらも髪をきちんとセットし元気いっぱいのハシノフ。果たしてどちらが「正常」であり「異常」なのか。「病的」であり「健やか」なのか。観客とハシノフにしか見えないし聞こえないオーケストラを舞台の背景に堂々と据えて、「正常」なはずの堤サンドルと「狂人」であるはずのハシノフの立場が逆転していく。


上記の堤サンドルの独白で一番「怖っ」ってなったのは、差し挟まれる堤サンドルと実の息子サーシャくんとの面会の場面ですね。


※※※

サーシャ (アレクサンドルには直接語りかけずに教室で喋る)海外から手紙が来たよ。僕らの写真が載った新聞の切り抜きが入ってた。

※※※


上記のとおり、原作では「この時点では父に直接話しかけられない」と指示があるのに、日本版舞台ではここだけが堤サンドルとサーシャくんが向かい合える場面なのです。堤サンドルがハシノフと同房にさせられる前の回想です。回想ながらもサーシャくんは、背後から声をかけたら振り向いてくれたパパと面と向かって話している。(舞台後半では「奴らに嘘をついてよ! 他の人がどう思ったっていいんだ! 僕はパパに帰ってきてほしい!」とサーシャくんが訴えようが堤サンドルは頑なに背を向け続けます。一瞥すらしない。)

そしてハシノフは、並んで座っていた堤サンドルの顔をじっと見つめながら重苦しい長話に耳を傾けていたのに(内容そのものはおそらくほとんど理解できていない)、話題が堤サンドルの実の息子サーシャくんに及び、赤の他人には到底踏み込めない親子の回想が始まった途端に目を背けるのです。「嫉妬」とまで言いきってはさすがに言葉が強すぎますが、堤サンドルの息子の存在を知らされたハシノフは居心地の悪い思いをしている。

マシュマロで指摘されてはっと気づきましたが、「アレクサンドル」の愛称は「サーシャ」なので、ハシノフの愛称も「サーシャ」なのです。彼も少なくとも幼少期には、親や学校の先生、同級生などからは「サーシャ」と呼ばれていたはずです。
自分のせいで息子のサーシャくんが女教師にねちねちいびられる悪夢から目覚める時に堤サンドルは「サーシャ!」と息子の名前を呼びますが、この時まだ堤サンドルの息子の名前を知らなかったハシノフは、寝ぼけて「おれのこと呼んだ?」と取り違えてもおかしくありません。

ロシア人の名称にある程度は理解がないと初見殺しだったでしょう三人のアレクサンドル(サーシャ)・イワノフ、彼ら三人が同姓同名だったのはもちろんラストでアレクサンドルとイワノフをわざと取り違えるためでしたが、日本版は更に、アレクサンドルの息子のサーシャと実はこちらも愛称サーシャであるイワノフの取り違えも狙ったのではないかと思えてなりません。ただでさえアレクサンドルとイワノフを演じる堤さんと橋本さんの元々の年齢差が親子であってもおかしくなかったし、ハシノフは口調こそ荒いが序盤から変に子供っぽく堤サンドルに懐いていて、隙あらば距離を詰めてこようとする。下剤ポリポリしながら堤サンドルにしゅっと詰め寄ってくるとこたいへんかわいかったですね。

第一回まとめでも指摘しましたが、ハシノフは堤サンドルと同じ屋根の下(監房だが)で暮らし、同じ皿から食事をし(ハンストで拒否ったのを勝手に食っただけともいう)、難しくてろくに理解できない長話に付き合わされ、読書の邪魔をして叱られる。そのどれもがきっと、自分が生まれたせいで母を亡くし、幼くして父からも引き離されたサーシャくんが切望してやまなかっただろうことなのです。


さてここで、原作戯曲と英語版舞台のラストがどうなるのか確認してから日本版ラストを振り返ってみましょう。


※※※

   オルガンの音。大佐の登場は可能な限り威風堂々としていなければならない。彼はオルガンが奏でる音楽を従えて入ってくる。
   医者は大佐を出迎える。大佐は医者を無視する。彼はアレクサンドルとイワノフの前で立ち止まる。彼が話し出すのはオルガンの音が静まり始めてからである。

   監房

大佐 イワノフ!

   アレクサンドルとイワノフは立ち上がる。

(イワノフに)アレクサンドル・イワノフ?

イワノフ はい。

大佐 お前は精神科医が健康な人間を精神病院に入れると思うのか?

医者 失礼ですが、ドクター……。

大佐 黙っていろ。

 (イワノフに)どうだ? お前の見解を答えろ。ソビエトの医者は健康な人間を精神病院に入れると思っているのか?

イワノフ (困惑して)思いません。何故そんな質問を?

大佐 (事務的に)実にけっこう。具合はどうだ?

イワノフ 素晴らしいです。調子よく仕上がっています。<註:英語原作は「Fit as a fiddle.」>ありがとうございます。

大佐 実にけっこう。(アレクサンドルに向き直る)アレクサンドル・イワノフ?

アレクサンドル はい。

大佐 お前はオーケストラを従えているのか?

   イワノフは口を開きかける。
(イワノフに)黙っていろ。(アレクサンドルに)どうだ? 答えろ。

アレクサンドル いいえ。

大佐 お前には何か音楽が聞こえているのか?

アレクサンドル いいえ。

大佐 具合はどうだ?

アレクサンドル 良好です。

大佐 「良好です、ありがとうございます」と答えるものだ。

アレクサンドル。良好です。ありがとうございます。

大佐 (医者に)彼らは完全に正常だ。ふたりとも退院させろ。今日中にだ。

医者 おおせのままに。同志大佐……ええっと……ドクター……。<註:英語原作に「同志」の文字はありません。>

   大佐の退場も登場時とほぼ同様に堂々としたものであり、やはりオルガンの音を伴っている。ただ今回はオルガンの演奏にオーケストラも加わる。フィナーレが近い。
   女教師はオーケストラの壇上に登る。
   医者はバイオリニスト達のそばに座り、自分の楽器を取り出して演奏を始める。
   イワノフはトライアングルを手に取って、打楽器隊の中に立ちやはり演奏を始める。
   サーシャはオーケストラの前の舞台中央に出てくる。これは舞台の後方に位置するオルガンに向かってオーケストラを横切りやや上方に登っていく通路があると想定した上での指示である。
   アレクサンドルとサーシャはその通路を歩いていく。サーシャが少し先を駆けていく。
   彼は振り向いて高い位置から歌う
   旋律は前のものと変わらない。

サーシャ (歌う)パパ、狂わないで! すべてうまく行くよ!

アレクサンドル サーシャ……。

サーシャ (歌う)すべてうまく行くよ!

音楽。

※※※


この原作ラストをどう考えるかは各自の判断にお任せするとして、英語版舞台二種も、大佐の退場後にイワノフは舞台前方にアレクサンドルを残してさっさとオーケストラに加わります。
取り残されるアレクサンドルは、ハンスト及び意に沿わぬ形で強引に釈放された失意の念から憔悴し(一旦退場し杖をついて再登場したり、舞台端で座り込み顔を伏せたりする)、見るからに弱りきっています。
ですがそこに息子のサーシャが登場し、おそらくPTSDに苦しむ父アレクサンドルに直接歌いかけます。


「パパ、狂わないで! すべてうまく行くよ!」

アレクサンドルは息子と向き合い「サーシャ」と名を呼び、父と子は固く抱き合う。

サーシャ (歌う)すべてうまく行くよ!


演出の違いこそあれど英語版舞台は二種ともこのラストです。「放浪息子」ならぬ「放浪親父」の帰還を待ち続けた息子が、(父として扶養義務があった息子をないがしろにしてまで信念に生きた)父の過ちをすべて許し迎え入れる、それがこの原作のいわばノーマルエンドなのだと思います。


日本版ラストを以下にざっくりと箇条書きでまとめます。

・歴代アレクサンドルの中でも私の知る限り最もよれっよれでやつれ果てた堤サンドルは、大佐による釈放命令が下されると糸が切れたかのようにその場にくずおれる。
・看守役も兼ねているので時に厳しいが基本的にハシノフ親衛隊である看守服ダンサーズのみなさんは、うずくまる堤サンドルをすかさず囲い込む。
・大佐に続き、医者、サーシャくん、女教師は慌ただしく退場する。その前にサーシャくんは父のもとに駆け寄ろうとするが、看守に阻まれて近づけないし女教師に追い立てられて有無を言わさず引き離される。
・オーケストラと看守服ダンサーズを除き、舞台に残って堤サンドルに寄り添うことが許されるのはハシノフのみである。
・オーケストラの不穏な演奏(英語版舞台では背後のスクリーンにソ連時代の記録写真が連続して映し出される)が流れる中、堤サンドルは力なく座り込み、並んで座るハシノフの肩にもたれかかる。
・彼らふたりを取り囲むようにしてゆったりと舞い踊る看守達(またはハシノフ親衛隊)の手にはバイオリン。
・看守のひとりに手渡されたバイオリンをハシノフは堤サンドルに差し出す。しかし堤サンドルは拒絶する。
・拒まれたバイオリンを手にハシノフは立ち上がり、嘲るかのように笑う。
・ハシノフはオーケストラの指揮台に移動し、今度は指揮棒を取り上げて堤サンドルに差し出す。
・そこに録音ではあるがサーシャくんの歌声(パパ良い子になって、すべてうまく行くよ)が流れる。
・苛立つ表情を浮かべるハシノフ。指揮棒を指揮台に置いてオーケストラの中に消える。
・堤サンドルは背後(客席)を振り返り、「サーシャ」と息子の名前を呼びはするが、またオーケストラに向き直って指揮台に立ち、ハシノフが残していった指揮棒を振り上げる。
・EGBDF。


……ちょっとウィル~(気安く呼び捨てするな)、うちだけエンディングがどう考えてもおかしいんだけど!?

原作及び英語版舞台の、言わばサーシャくんルートのノーマルエンドと比べて日本版ラストは、ぐるぐるぐるっと数周巡り巡った上で180度真逆を突っ走りました!ってくらい絶対おかしいだろうと断言したい。ハシノフルートのメリバでしょこれ!?


※メリーバッドエンドとは:
 いわゆる「Open-ended」(開かれた終わり・結末)。受け手の解釈によって幸福と不幸が入れ替わる結末。「Open ending」とも言う。
 
 上記の文章を引用させていただいたピクシブ百科事典のこちらの記事がとてもわかりやすいです。
https://dic.pixiv.net/a/%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%89


科白だけ追えば、大佐に「正常」と判断されたアレクサンドルとイワノフは無事釈放され、イワノフのことはまあさておいても少なくともアレクサンドルは、父の帰還をずっと待っていた息子のサーシャに迎えられて家に帰り同じ屋根の下で暮らすはずです。
でも日本版の後日談もそうなったとは私には思えません。何故なら原作や英語版舞台と違い、サーシャが先導する形でアレクサンドルと共に精神病院をあとにしたり、精神病院の外に出されたアレクサンドルが息子のサーシャに迎えられて抱き合うという、ノーマルエンドに欠かせない父と子の再会の描写がなく、舞台上に父を残して強引に退場させられるサーシャくんの代わりに堤サンドルに寄り添うのはハシノフだから。

原作及び英語版舞台はサーシャくんルートのノーマルエンドで、「なんかもやもやするけどパパとまた一緒に暮らせるんだねよかったね!……よかったんだよね!?」ともやもやさせられつつもなんとなくいい感じで締めくくられますが、日本版舞台はハシノフルートのメリバで、「ちょっと待ってよどういうことなの!?」と観客があれよあれよとおろおろしてる間に終わります。

これだけ真逆のラストに突っ走ってくれておきながら、日本版舞台の科白自体は本当にほぼ原作戯曲まんまなんです。
追加された科白は私の気付いた限りたったふたつ、ハシノフの「こっちに来て!」「聞こえる?」だけです。
(「聞こえる?」攻撃の数は多いがとりあえずまとめてひとつとカウントします)
(ストーリー上その必要はまったくなかったはずなのに何故かハシノフにだけ甘々だった大佐の追加科白、「元気! 元気かーそーかそーかー」は私の理解力を超えすぎていたためこのまとめでは触れないことにします。あれほんと何だったんだ一体? 可愛い孫が久しぶりに遊びに来てくれて嬉しい田舎のおじいちゃんかよ!)

文字にするとごくごく些細な差異ではありますが、英国演劇界の至宝とまで言われるトム・ストッパード原作戯曲に、イギリス人であるタケットさんが特に意味もなくいたずらに手を加えるとは到底思えません。
制作過程のどの段階で「原作とは真逆のこのエンディングで行こう!」とタケットさんが思い立ったのかは知る由もありませんが、導入部の「こっちに来て!」が加筆された時点で、日本版のハシノフルートメリバは確定していたのではないでしょうか?


日本版舞台は「教室」が行ったり来たりしていましたが、原作のト書きでは「監房」「診察室」「教室」の三か所がきっちり指定されています。


※※※

   舞台上には三つの場所が共存している。

   二台の寝台が並ぶ監房。

   一台の机と二脚の椅子が据えられた診察室。

   学校机が一台のみの小学校の教室。

   どの場所もごく狭くてかまわないが、何らかの形でつながり合っていなければならず、また、三箇所すべてとオーケストラの上には強弱の調整が可能なライトを個別で設置する必要がある。
   監房にはふたり、アレクサンドルとイワノフ。アレクサンドルは政治犯であり、イワノフは真の狂人である。

※※※


アレクサンドル自身が望む望まないはさておいといて、「監房」「診察室」「教室」とオーケストラのみで構成されるこの舞台で、アレクサンドルとイワノフがふたりきりになれる場所は「監房」だけです。日本版のラストでは(オーケストラとダンサーズを除くと)堤サンドルとハシノフのみが舞台上に残される。それはすなわち、彼らは結局退院できずにふたりきりの監房に戻されたという意味ではないのでしょうか? 

舞台を降りる前にサーシャくんは父のもとに駆け寄ろうとしますが、堤サンドルを囲う看守たちに阻まれて近づけないし、女教師に急き立てられて強引に退場させられます。何故女教師はサーシャくんを父親の堤サンドルから無理やり引き離したのか? それは堤サンドルが「子供にはとても見せられない」状態に陥っていたからではないでしょうか?

日本版ラストの解釈は多々ありますが、私は「堤サンドルの発狂」だと思っています。実の息子も自分の命をも捨ててまで貫こうとした信念を、唐突に登場した権力の象徴である大佐にへし折られ、彼は自分の足で立つこともできなくなってその場にくずおれたのです。

更に言えばハシノフは、同姓同名の堤サンドルと彼をあえて取り違えた大佐に「お前は精神科医が健康な人間を精神病院に入れると思うのか?」と問われて「思わないよ」と超あっけらかんと答えます。「友達も俺も正気なのに精神病院に入れられた」と切々と語る堤サンドルの長話をあんなにも真面目な面持ちで聞いていたのに。
「ここはキチガイ病院だ」と言い切るハシノフにとって、精神病院の中にいる患者は自分も堤サンドルも全員キチガイなのです。堤サンドルの命を賭したハンストすら狂気の沙汰の与太話でしかなかったのです。

「あいつは凶暴な狂人だが俺は正気だ!」と暗に「頭のおかしいあいつより俺はましなんだ!」とハシノフを見下していた堤サンドルにとって、ハシノフの「思わないよ(俺もおかしいけど同房のあいつも俺とおんなじくらい頭おかしいもん)」発言は相当こたえたでしょう。堤サンドルはハシノフに出会ってしまったせいで狂人のレッテルを貼られた。「良い子~」の作中では「狂気」の象徴である「オーケストラ」の音色が聞こえるようになってしまった。
(ハシノフ歓喜の舞の場面でダンサーズは、監房の片隅で読書をする堤サンドルを囲み手をひらひらさせ、堤サンドルは反応し本から顔を上げます。この時点で堤サンドルにはハシノフのオーケストラが確実に聞こえています)

原作遵守ならばサーシャの歌声は録音ではなく生で歌われるはずです。(サーシャくん役のシム・ウンギョンさんの歌唱力には定評があるのでまさかの録音にびっくりした)ハシノフのオーケストラに遮られ、堤サンドルには実の息子の声すら直接は届かなくなってしまっていた。彼は鳴り響くハシノフのオーケストラに悩まされ頭を抱えて耳を塞ぎ、「帰ってきてよ」と訴えるサーシャくんに背を向けざるを得なかった。日本版舞台のラストはハシノフルートのメリバです。堤サンドルはハシノフの狂気に取り込まれ、息子の待つ現実、すなわち精神病院の外に出られなかった。

ハシノフは何故堤サンドルに指揮棒を差し出したのか? ラストを大幅に変更するに当たって、ごく単純に原作の科白「オーケストラ団員はみんな指揮棒を持ってるんだ!」を生かしたかったんでしょうが、ハシノフくんは「感情の制御ができない自分を指揮してくれる大人」が欲しかったんだと思います。自分が指揮者じゃなくてもいいんです、トライアングル奏者としてオーケストラの末席にいさせてもらえれば。

最後のサーシャの歌声は、原作遵守であればPTSDに苦しむ父を「パパ狂わないで、全部うまく行くよ」と迎え入れ抱きとめる息子の無償の愛の歌となるはずですが、日本版舞台では「パパ良い子になって」とさりげなく書き換えられています。発狂した父に「狂わないで」と歌いかけたところでもはや無駄なのです。

実の息子であり自分と同姓同名である「サーシャ」と、たまたま同姓同名だったから同房にさせられた狂人の「イワノフ」が最後の最後でごっちゃになる。堤サンドルに「良い子になって」と歌いかけるのはサーシャくんなのかハシノフなのか。サーシャくんの歌声の録音が流れるとハシノフは苛立った表情で指揮棒を置きオーケストラの中に姿をくらまします。堤サンドルは振り返り「サーシャ」と息子の名を呼びつつも、客席に背を向けてハシノフが残した指揮棒を取ります。ハシノフの狂気が生んだオーケストラに取り込まれた彼は精神病院の中にとどまる以外の道はなかったのです。EGBDF。

「良い子はみんなご褒美がもらえる」の日本版舞台はストッパード原作の実の息子サーシャルートを捨ててイワノフルートのメリバを選んだ。おそらくこのラストでは本国イギリスでの公演は不可能でしょう。

自分がえび担だしえび堕ちしたきっかけがコイベビだったもんで、ハシノフこと橋本さんの演技を中の人がはっしーという時点で手放しで褒めたくなってしまう自覚はものすごくあるんですが、同原作の過去舞台とねちねちねちねち比較検証したところ、やっぱり日本版舞台はハシノフありきでラストまで書き換えられたと思えてならないのです。